人生に絶望した時に読んでほしい記事

希望の光 精神改善

生きていても全然いいことがなかったり、自分が生きる意味を感じられない。別に死んでしまっても構わない。人生に絶望して疲れ切ってしまったあなたにこそ読んでほしい記事を書きます。僕にも生きる気力を失っていた時期があります。でも、今はそれなりに楽しく生きています。月並みな意見ですが、生きていればいいことがあります。あなたには何とか生き延びて、それを感じてほしいと思っています。この記事では、人生に絶望してしまう原因と、絶望してしまった人が生きる気力を見出す方法について書きます。今すぐは難しくとも、あなたがいずれ充実した人生を送ることができるためのヒントになれば幸いです。

人生に絶望する要因

まず、人生に絶望する要因について考えてみました。僕が思うに、以下の3種類です。

人生に絶望する要因
  • 自分に対する無価値感・無力感
  • 理不尽な仕打ちを受けた経験
  • 善意を裏切られた経験

一つずつ解説していきます。

自分に対する無価値感・無力感

自分に対して無価値感・無力感を抱いてしまうと、自らの人生に絶望することになります。例えば、同級生が社会的に成功しているのに、成功できていない自分を残念に思った事はありませんか?「みんなはうまくいっているのに、自分はダメだ」と思ってしまうと、自分に無価値感・無力感を抱くことになります。また、「お前は○○がヘタ」「何をやってもダメ」「お前には絶対できない」など、他人から心無い言葉を浴びせられることでも、無価値感・無力感を抱くようになります。そうなると、他人の成功を素直に喜べなくなったりして、自己嫌悪に陥ります。ますます生きるのが嫌になっていってしまうことでしょう。

理不尽な仕打ちを受けた経験

理不尽な仕打ちを受けた経験も、人生への絶望につながります。理不尽な仕打ちの典型はいじめです。過去にいじめられた経験があったり、今まさにいじめられているという人は、人生に絶望していることでしょう。子どもの頃だけではなく、大人になってからもいじめてくる人間はいます。パワハラや嫌がらせをしてくるような、どうしようもない人間が確実に存在するのです。「いじり」という名目でいじめてくる人間もいます。理不尽な仕打ちというのは、身体的な暴力や罵声などの直接的な攻撃だけではありません。大勢の人の前で恥をかかされることや、不機嫌な人間からのとばっちり、マウントをとられることも理不尽な仕打ちです。理不尽な仕打ちを経験すれば、誰だって人生に絶望してしまうことでしょう。

善意を裏切られた経験

善意を裏切られることも人生に絶望するきっかけになります。大変な頼みごとを解決してあげたのに相手からのお礼がない。相手が大切な約束を破っても平気な顔をしている。それらがこれにあたります。お礼を言わなかったり、謝罪をしないような無礼な人間の言動は、人を絶望させるだけの破壊力があります。

絶望の根本原因

ここで、もう一段階掘り下げて、人生に絶望してしまう根本原因を考えてみました。ここまでに述べたのは絶望するきっかけになる事ですが、そもそもの根本的な原因があると思うのです。根本原因は以下のようなものだと思います。

絶望の根本原因
  • 崇高な目標を持って生きている
  • 誰にでもいい人であろうとした
  • 他人の評価軸で生きてしまっている

一つづつ解説していきます。

崇高な目標を持って生きている

人生に絶望してしまう根本原因として、「崇高な目標を持って生きている」ということが挙げられます。あまりにも高すぎる目標を掲げてしまうと、当然ながら達成は困難です。というか不可能です。誰だってそうです。そんな中、崇高な目標を掲げ、それが達成できず、無力感・無価値感を抱いて、人生に絶望する人がいます。頑張り屋さんにはこの傾向が強いと思います。

他人からすれば、「もっと目標を下げればいいのに」とか「今の自分にできる範囲でやればいいのに」とか思うことでしょう。でも、自分ごととなると、人は客観視できなくなります。「腕立て伏せを1万回やる」なんて、人間にはできません。でもそれを本気で実行しようとして、達成できずに絶望してしまうのです。

崇高な目標を持って生きることは、もちろんすばらしいことです。でも同時に、自らを追い込んでしまうことになるのです。

誰にでもいい人であろうとした

「いい人である」ことも、人生に絶望する根本原因になりえます。いわゆる「優しい人」「いい人」は尊い存在であり、そんな人は絶対に報われてほしいと思います。でも、現実の人間社会では、いい人は損な役回りになってしまうことが多々あります。厄介ごとを押し付けられたり、いいように利用されたり、貧乏くじを引かされる場合が多いです。いい人であることは、道徳的には人間が目指すべき姿です。問題は、「誰にでも」いい人であろうとすることです。人を選ばずに誰にでもいい顔をする八方美人でいると、ずるい人間から付け狙われ、搾取されるようになります。損な役回りばかりさせられていると、ばかばかしくなって、人生に絶望して当然だと思います。

他人の評価軸で生きてしまっている

人生に絶望する根本原因として、「他人の評価軸で生きてしまっている」ということも挙げられます。他人からどう思われるかばかりを気にして生きてしまっている、ということです。こういった生き方が好ましくないことは、なんとなくわかってもらえると思います。でも、人間である以上は多かれ少なかれ、他人の評価軸で生きています。「世間や仲間から称賛されたい」、「みんなから好かれたい」といった願望は、誰だって持っているものです。これは、人間の本能として、「集団の中で一目置かれるように振る舞う」というのが備わっているからです。そうすることで、「自分の一族を繁栄させて、集団の中で優位に立つ」という生物的な要求を満たすことができます。自分と他人を比較し、「もっと頑張ろう」と自分を頑張らせる。この本能に従いすぎると、頑張りすぎて疲れ切ってしまうことになります。

生きる気力を出すコツ

ここまで、人生に絶望してしまう原因について解説してきました。ここまで読んでくれたあなたが、もし自らの人生に絶望しているのであれば、絶対に生きていてほしいと思います。きれいごとではありますが、「生きていれば必ずいいことがある」というのをぜひ感じてほしいのです。僕自身、人生に絶望した経験がありますが、今はそれなりに楽しく生きることができています。苦しんでいる人にこそ、「人生捨てたもんじゃないな、悪くないな」と思える人生を送ってほしいと願っています。そこで、生きる気力をが出すためのコツを紹介します。

生きる気力を出すためのコツ
  • 怒りをエネルギーに変える
  • あの頃の自分を取り戻すために生きる
  • 搾取してくる人間を避ける
  • SNSを極力見ない
  • 手ぶらで散歩する
  • 人間はそれほど崇高ではないと理解する
  • 人の本能を理解する

一つずつ解説していきます。いくつかあげますが、ひとつでも参考になればと思います。

怒りをエネルギーに変える

人生に絶望している人は、誰かしらに苦しめられた経験を持っているはずです。親から虐待されたり、同級生からいじめられたり、仕事関係の人間に嫌がらせを受けたり、といった経験です。他人から苦しめられた経験があると、生きるのがつらくて当然です。また、自分を苦しめた張本人が、社会的に成功したり、のうのうと生きているのを見るだけで吐き気がすることでしょう。

そういった経験から人生に絶望し、「別に死んでもいい」と思っているのであれば、少し待ってください。もしあなたが自らの命を絶ったとしても、あなたを苦しめた張本人には何も報いることができません。考えてみてください。あなたが亡くなった後に、あなたを苦しめた張本人は泣いて詫びるでしょうか。今までのことを謝罪するでしょうか。「申し訳なかった」と今までのことを謝罪するでしょうか。いや、あなたを苦しめるような無神経な人間は、気にも留めず、のうのうと生き続けることでしょう。そのような人間は、他人の痛みを理解する能力がないのですから。そして、そんな人間達は、十分な社会的制裁を受けることも決してありません。多少責められたとしても、要領よく切り抜けるだけです。

そういうのって、すごく悔しくですか?その悔しさ・怒りを、生きるためのエネルギーに変えるのが健全です。怒りは、生きるための強いエネルギーになります。他人に対する憤りから、自らの命を絶つのは本当にもったいないと思います。それよりも、悔しさやみじめさを生きるエネルギーに変えて、何としても生き延びてやりましょう。

あの頃の自分を取り戻すために生きる

人生に絶望するのは、ある程度年齢を重ねてからだと思います。僕が人生に絶望したのは、大人になってからでした。今までに積み重なってきた負の感情が一気にあふれ出して、無気力になったことを今でも覚えています。人生に疲れて、何事にもやる気が出なくなりました。無力感・無価値感を日々感じて、他人への興味は全然なくて、人の成功を喜べませんでした。生きていて楽しくなかったです。

でも、そんな僕にも、過去に楽しかった日々はありました。小学校低学年の頃は悩みなど一切なかったと思いますし、中学・高校の頃は中二病爆発といった感じでそれなりに楽しく生きていました。そう、人生に絶望した人にも、元気だった過去があると思うのです。悩みなどなく、元気に生きているのが本来のあなたの姿です。何かしらが原因で、今は元気がなくなってしまっているのです。原因が何なのか、すぐにははっきりしないかもしれません。でも、過去に元気だった時期があったのは確かだと思います。とりあえずでいいので、あの頃を取り戻すために、生きてみませんか?

搾取してくる人間を避ける

あなたを苦しめる、搾取してくる人間を避けることも大切です。搾取してくる人間とは、他人を苦しめてもなんとも思わないようなひどい人間です。そんな人間と関われば関わるほど、気持ちが落ち込んでいきます。だから、搾取してくる人間とは、関わる時間を限りなく少なくする努力をしましょう。

しかしながら、人生に絶望している人は生きる気力が低下していて、搾取してくる人間が誰なのかわからないかもしれません。搾取されていることに気づいていないかもしれません。例えば、世の中には暴力男に尽くす女性がいます。ダメ男に引っかかってしまうタイプの女性です。第三者からすれば「そんな男やめておいた方がいいのに」と思うことでしょう。でもその女性は被害者であるにも関わらず、「本当は優しい人なんだよ」とダメ男を擁護する始末です。健全な人はこの気持ちを理解できないことでしょう。気持ちが落ち込んでいる被害者が、加害者を擁護してしまうケースは多々あります。被害者側が「加害者は誰なのか」を気づいていないからです。人は、自分事となると鈍感になる生き物です。気持ちが落ち込んでいれば、さらに鈍感になります。ずるがしこい加害者は、一見すると加害者とはわからないものです。詐欺師と同じく、加害者と気づかれないように被害者に近づいて、搾取します。そして、人生に疲れた人は、加害者が誰なのかを判別する能力が鈍っていて気づきにくいものです。

自分を押し殺してまで、大きな我慢をしてまで、人に尽くす必要はありません。献身を強要してくる相手には、優しくする必要はありません。あまたがもし、誰が加害者なのか明確にわからない場合、本能的に「なんか嫌」と感じる人間が加害者の可能性があります。自分の直感を信じましょう。その相手と距離を置くことで、搾取されなくなり、気力を取り戻せるかもしれません。

SNSを極力見ない

人生への絶望は、他人との比較から発生する場合も多いです。そのため、SNSを極力見ないように心がけることが大事です。SNS上には、社会的に成功している人・充実した生活を送っている人たちがたくさんいます。そしてそういった人たちは目立ちます。他人のキラキラした部分が目に入ると、どうしても自分と比較したり、嫉妬したりしてしまうものです。その結果、絶望してしまうことになるでしょう。

人間は無意識に、自分と他人を比較してしまうものです。SNSには、必ず「他人」の存在があります。よほどの陽キャでもない限り、自分と他人を比較したら落ち込んでしまうでしょう。だから、気が滅入っているときは、SNSからの情報は遮断した方がいいです。でも今の世の中、SNSを見ないというのは不可能に近いです。僕も隙あらばスマホを手に取ってしまうタイプです(笑) だからこそ、「SNSを極力見ない」というのを意識してやってみましょう。

手ぶらで散歩する

何も持たずに散歩する、というのも疲れた心に効きます。具体的には、スマホを家に置いて出かけるということです。人生に絶望しているとき、外出するのは非常にハードルが高いことでしょう。また、現代人にとってスマホを手放すのはとても不安に感じることだと思います。でも、頑張って出かけてみましょう。具体的には、近所の公園まで行ってみるといいでしょう。公園の中を一周して、帰るだけでいいです。

すると、気がつくことがあります。まず、現代人はスマホに依存しすぎだということです。数分間、スマホを手に持っていないだけで、不安に感じることでしょう。あと、街の景色、公園の自然にも目が行くようになります。外の景色に触れるだけで心が癒されます。普段、いかにスマホからの情報に五感が占有されているのかを気づかされます。刺激的な情報もたまにはいいのですが、過剰摂取しすぎると体に毒です。

手ぶらで散歩することで、スマホからの過剰な情報を遮断することができます。現代人は普段から多くの情報に触れ、情報のインプットが過剰になっていて、それを処理しきれていません。そうして脳が疲弊することは、人生に絶望する一因になりえると思います。手ぶらで外出すると、スマホからの情報がゼロになります。そうなると、自分の心の声があふれてきて、いろいろと考える時間をとることができます。これは健全なことであり、普段自分が何を感じて、どう思っているのか、心の中で整理することができます。自分が何者かを理解することができますので、心が浄化されて健全になっていきます。

なお、行き先は公園でなくてもいいです。大事なのは、スマホを手放していても不安を感じないようになることです。そして、自分の心の声に耳を傾けて、自分と向き合う時間を意図的につくることです。いわゆるデジタルデトックスというやつです。疲れた心に効きますよ。ぜひお試しあれ。

人間はそれほど崇高ではないと理解する

人生に絶望する人は、人間が崇高な存在だと思っているのかもしれません。人間が崇高な存在だと思っているからこそ、だらしない自分、腹黒い自分を許せないのでしょう。また、理想が高いからこそ、それに追いつけない自分に絶望しているのではないでしょうか。いわゆる完璧主義という思考です。

でも、人はそんなに崇高な存在ではありません。人間は、自分さえ良ければいいと感じたり、他人を出し抜こうと考えたりするものです。他人が苦しんでいるのを見て、喜ぶような輩もいます。それはある種の悪と言えるでしょう。でも、誰だって多かれ少なかれ、そういった悪の部分を持っています。もちろん、僕もです。100%の聖人など存在しません。

しかし、困っている人を助けたいと思ったり、世話になった人に恩返しをしたいと考えたり、人間には善の部分も存在しているのも事実です。善:悪=100:0とか0:100というわけではなく、人には善悪双方の側面があるということです。それだけで少しは楽になれます。だらしない自分を許せるようになります。

また、人間が崇高な存在だと思っていると、自分に対してだけではなく、他人に対しても疲れます。気に食わない人間が、社会的に成功していたり周囲から称賛されているのは、納得できないことでしょう。「憎まれっ子世に憚る」という言葉があるとおり、ろくでもない人間が社会的に成功したりします。なぜあんな人間がもてはやされるんだ、と憤りを感じることでしょう。認めたくはありませんが、そういったケースは割と多くあります。間違った人間が評価される場合も往々にしてある。それは、評価する側も人間であり、決して崇高と言える存在ではないからです。人間が不完全なものだと理解することで、自分に対しても、他人に対しても、楽に考えることができるようになります。結果として、多少は楽に生きられるようになるのではないでしょうか。

人の本能を理解する

人間の本能を理解することで、少しは楽になります。我々人間は動物です。本能に従って生きるようにプログラムされています。動物である以上、自分の遺伝子を残すことが最も重要なミッションです。自らの遺伝を残すため、人間には他人を出し抜こうとする本能があります。他人より優れていることを誇示して異性にモテようとします。遺伝子を残すのに都合がよくなるからです。それに関連して、恵まれた他人を羨ましがるのも当然のことです。他人を羨ましいと思うことで、自らを鼓舞して頑張ろうとしますから。人間としての自分のそういった部分が嫌になって、自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。

いくら強い意志を持っていても抗えないのが本能というものです。本能が「もっと頑張れ、他人を出し抜け、子孫を残せ」とささやいてきます。我々はそれに突き動かされているのです。人生に疲れた時は、本能に逆らうのではなく、「本能ってものは仕方がないなぁ」とゆるく考えた方が、多少は楽に生きることができるかと思います。

絶対に生き延びてほしい

ここまで読んでくれたあなたへ。今は本当につらいと思います。あなたの苦しみは、僕にはとても想像できないような、耐えがたいものだと思います。でも、ひとつ思うことは、絶対に生き延びてほしいということです。あなたが元気になれば、過去のつらい経験もいずれ笑い話にできる日が来ると信じています。今を耐え忍べば、いずれ夜明けは来ます。僕もそうでした。絶対に生き延びてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました